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大伯皇女について話します。

大伯皇女
 今回は、大伯皇女(おおくのひめみこ)について話していきます。よろしくお願いします。大伯皇女について説明します。大伯皇女は、天武天皇と大田皇女(おおたのひめみこ)との間に生まれた皇女です。大津皇子(おおつのみこ)は、大伯皇女の実の弟です。天武天皇と讚良皇女(さららのひめみこ、後の持統天皇)の間に生まれた皇子が、草壁皇子(くさかべのみこ)です。讚良皇女は、天智天皇と遠智娘(おちのいらつめ)の間に生まれた皇女です。大田皇女と讚良皇女は、実の姉妹です。同じ、天武天皇に嫁ぎました。讚良皇女は、皇后となり、天武天皇が崩ぜられた後、持統天皇になります。
 ここから話を続けて行きます。草壁皇子と大津皇子の間で、天武天皇の後継者争いが起きました。どちらを跡継ぎにするか、もめる訳ですね。結論から言うと、天武天皇が崩ぜられた後、大津皇子は、謀反の疑いで処刑されます。大津皇子が亡くなり、草壁皇子が即位するはずだったのですが、草壁皇子は、その後、大津皇子を追う様に亡くなってしまいます。
 なぜ、大津皇子が処刑されなければならなかったのかと言うと、讚良皇女は、自分の息子である草壁皇子を後継者にしたかったので、大津皇子が後継者になっては困る訳ですね。ですので、大津皇子に、無実の罪、謀反の疑いを掛けた訳です。私は、大津皇子の処刑は讚良皇女の意向と考えます。もちろん、実際に大津皇子が謀反を計画したと言う説もあります。
 大津皇子の姉である大伯皇女は、伊勢の斎宮(いつきのみや)をしていました。大津皇子は、処刑される前、ひそかに大伯皇女に会いに行っていた事が、万葉集によって伝えられています。万葉集を読んでいきます。巻ニ。
大津皇子、忍んで伊勢神宮に参られて、都へ戻られる時、姉君、大伯皇女の作られた御歌   
105 吾が兄子(せこ)を大和へやると、さ夜更けて、暁露(あかときつゆ)にわが立ち濡れし
(大事のあなたを、大和へ立たすというので、夜更けてから外へ出て、明方近い露の為に、立っていて濡れたことだ。 )  
106 二人行けど、行き過ぎ難き阿騎(あき)山を、いかにか、君が一人越えなむ
(あなたが大和へ帰る途中にある、あの阿騎山は、わたしも知っている。二人連れて歩いて居ても、寂しくて通りにくい所であった。それに如何して、あなたが独りで、越えてお行きなさるだらう。)  
 大伯皇女は、大津皇子が処刑された事を聞き、悲しみます。大伯皇女は、伊勢の斎宮の役目を終えられ、都に戻ります。その時、大伯皇女が詠んだ歌が、万葉集に伝えられています。万葉集を読んでいきます。
大津皇子、薨(こう)ぜられて後、大伯皇女、伊勢の斎宮(いつきのみや)から、都へ上られた時の御歌  
163 かむかぜの伊勢の国にもあらましを。何しか来けむ。君もあらなくに
(こんなことなら、伊勢の国に居たはずだのに、どうして来たのであらう。壊しい弟の君も居られないのに。 )  
164 見まく欲(ほ)り我がする君もあらなくに、何しか来けむ。馬疲るゝに
(折角逢おうと思うてやって来た方も、御いででないのにどうして、わざわざ馬が疲れるのにやって来たのであらう。 )  
大津皇子の亡骸(なきがら)を、葛城の二上山(ふたかみやま)に移葬し奉った時、大伯皇女の御歌。二首   
165 うつせみの人なる我や、明日よりは、二上山を阿弟(いろせ)と我が見む
(肉体を持つた人間である私として、大事の弟を葬った山だから、明日からは、二上山をば兄弟と見ねばならぬのだらうか。)  
166 石(いそ)の上に生ふる馬酔木(あしび)を手折らめど、見すべき君がありと云はなくに
(岩の辺に生えて居る馬酔木を折っても見ようが、しかし見せたいと思う方は、生きていると言うではなし、詰らぬことだ。 )  
 ここからは、私の意見と感想を述べていきます。大津皇子の処刑は、悲劇的な事です。なぜなら、讚良皇女(持統天皇)の自分の息子、草壁皇子を天皇の跡継ぎにしたいと思う、身勝手な思いから、大津皇子は処刑されてしまったからです。大津皇子は、皇后の権力の前に、敗れ去った訳です。大伯皇女は、弟が亡くなり、悲しみも、ひとしおだと思います。大伯皇女が、万葉集に残した短歌、6首は、全て弟の大津皇子を哀れんだものです。それ以外の短歌は、詠んでいません。そこに、魅力を感じます。大伯皇女は、伊勢の斎宮として神に仕えていながら、悲しい出来事を経験したからこそ、魅力的だと思います。貴方は、どう思いますか。教えて頂けたら幸いです。ここまで読んで下さいまして、ありがとうございました。
 出典 折口信夫訳 口訳万葉集
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十市皇女について話します。

十市皇女
 今回は、十市皇女について話します。よろしくお願いします。十市皇女は、大海人皇子(後の天武天皇)と額田王の娘で、中大兄皇子(後の天智天皇)の息子である大友皇子(後の弘文天皇)の妃です。
 高市皇子(十市皇女の異母姉弟)は、十市皇女が亡くなった時に、痛切な挽歌3首を万葉集に残しています。その事から、十市皇女は、高市皇子と恋仲であったと思われます。しかし、大友皇子は、十市皇女を妃にしています。大友皇子は、高市皇子から十市皇女を奪い取って自分の妃にしたと思われます。天智天皇が崩御し、大友皇子は皇位を継ぎ、弘文天皇になり、十市皇女は、皇后になります。
 大海人皇子は、我こそが正当な皇位継承者だとして、弘文天皇に反乱を起こします。これが、壬申の乱です。十市皇女は、とても難しい立場に立たされます。なぜなら、十市皇女にとって、弘文天皇と大海人皇子の戦いは、夫と父との戦いだからです。そこが、とても魅力的だと思います。
 宇治拾遺物語には、十市皇女が弘文天皇の状況を伝える手紙を鮒(ふな)の腹に入れて、父の大海人皇子に送った話が残っています。ですので、この話が正しければ、壬申の乱の大海人皇子の勝利の最大の貢献者は、十市皇女と言う事になります。私は、この話には疑問を感じます。なぜなら、宇治拾遺物語には、滑稽な作り話がたくさん書かれているからです。もう一つの理由として、この話を正しいとすると、十市皇女は、天皇である夫を裏切って、父に味方した事になり、倫理的な問題が生じるからです。私は、十市皇女が鮒に手紙を入れて送った事は、無かったと考えます。もちろん、どちらを取るかは、皆さんそれぞれ違うと思います。
 弘文天皇が自害した事によって壬申の乱が終わり、大海人皇子は、即位して天武天皇になります。十市皇女は、夫に先立たれ、もう高市皇子と結婚する事に何も問題が無いのですが、ここで一つ問題が生じます。なぜなら、十市皇女と高市皇子が結婚してしまうと、世間に、その為に壬申の乱を起こしたと誤解されてしまうからです。ですので、天武天皇は、しばらくの間、十市皇女と高市皇子を結婚させませんでした。天武天皇は、十市皇女を泊瀬の斎王(いつきのみこ)にする決定をしました。ですが、十市皇女が泊瀬に行く当日になって、十市皇女は亡くなってしまいます。日本書紀には、病の為に亡くなったとしていますが、あまりに、亡くなるタイミングが良すぎる事から、自害したのではないかと言う説も当然出てきます。私は、十市皇女は自害したと考えます。十市皇女が自害した理由は、もう自分と高市皇子の結婚が絶望的になり、未だに自分に恋焦がれている高市皇子を解放する為だったと思います。
 私は、万葉集の世界で一番好きな人物は、十市皇女です。なぜなら、十市皇女は、難しい立場で、夫の弘文天皇からも、父の天武天皇からも、「敵」の身内と見られてしまうからです。十市皇女本人の心労は、相当なものだったと思われます。悲しい運命を背負って生きたからこそ、魅力的だと思います。万葉集に、十市皇女が残した歌は、1首も残っていません。十市皇女は、謎に包まれていて、ミステリーだからこそ魅力的だと思います。皆さんは、どう思いますか。教えていただけたら幸いです。
 最後に、万葉集から、高市皇子が十市皇女が亡くなった時に詠んだ短歌を3首示します。
万葉集、巻二  
  十市皇女の薨ぜられた時、高市皇子尊が作られた御歌。三首  
156 神籬(みもろ)の神の神杉過ぐる惜しみ、影に見つゝぞ寝(い)ねぬ夜ぞ多き
  死んで過ぎ去つて終ふ人の余波(なごり)惜しさに、幻影にばかりその人を見て、寝られない晩が多い。
157 三輪山の山辺真麻木綿短木綿(やまべまそゆふみじかゆふ)、かくのみからに、長しと思ひき
  三輪山の辺で出来る真麻の幣帛、その短い幣帛のやうに、僅かこればかりしかない、我々の短い契りだつたのに、何時迄も長く続くものだ、と安心して居た。其が残念だ。  
158 山吹の立ち儀(よそ)ひたる山清水、汲みに行かめど道の知らなく
  十市皇女の葬つてあるみ墓の辺には、山吹のとり囲んだ山の清水がある。それを汲む為に、御霊は通うてゐられようが、人間の自分には、その道を知ることが出来ないから逢はれない。
 ここまで、読んで下さいまして、ありがとうございました。
出典 折口信夫訳 口訳万葉集