FC2ブログ

葵祭に行ってきました。

 2018年5月15日に、上賀茂神社、下鴨神社で行われた、葵祭に行ってきました。その時に撮った写真を紹介していきます。よろしくお願いします。
葵祭
 この絵は、源氏物語の、『葵』の帖で葵祭の見物のシーンを絵で描きました。左下の女性が六条御息所で、右上の女性が葵の上です。まず、源氏物語の『葵』の帖、葵祭の車争いの部分を示します。(くの字点は、「/\」としました。)

(葵の上一行の車は、)日たけ行きて、儀式も、わざとならぬさまにていで給へり。隙もなう、たちわたりたるに、よそほしうひき続きて、立ちわづらふ。よき女房車多くて、雑/\の人なき隙を思ひさだめて、みな、さしのけさする中に、網代の、少しなれたるが、下簾のさまなど、よしばめるに、いたう引き入れて、ほのかなる袖口、裳の裾・汗衫など、ものゝ色、いと清らにて、殊更に、やつれたるけはひ、著(しる)く見ゆる車二つあり。
「これは、更にさやうに、さしのけなどすべき御車にもあらず」
と、口ごはくて、手触れさせず。いづかたにも、若きものども、醉(ゑ)ひ過ぎ、たち騒ぎたるほどの事は、え、したゝめあへず。おとな/\しき御前の人/\は、
「かく、な」
などいへど、えとゞめあへず。斎宮の御母御息所、「物思し乱るゝ慰めにもや」と、忍びていで給へるなりけり。つれなしづくれど、おのづから、見知りぬ。
「さばかりにては、さな言はせそ。大将殿(源氏)をぞ、豪家には思ひ聞ゆらむ」
などいふ。その御方の人も、まじれゝば、「いとほし」と見ながら、用意せむもわづらはしければ、知らず顔をつぐる。いひに、御車ども立て続けつけば、人だまひの奥に、おしやられて、物も見えず。心やましきをば、さるものにて、かゝるやつれを、それと知られぬるが、いみじく妬き事、限りなし。

(現代語訳)
日が高くなってから、作法もわざとらしくならない様に、お出かけになった。(一条の大路に物見車が)隙間もなくに立ち並んでいるので、(葵の上の一行は、)装い美しく車を連ねたまま、立ち往生していた。すでに立派な女房車がたくさん出ているので、その中で、お供の下人たちのいないあたりに思い定め、その辺りの他の車を皆立ちのかせようとする中に、少し古びた網代車の、下簾の様子などもいかにも由緒ありげで、(主人(ここでは六条の御息所)は、)車のずっと奥に身をひそめて、下簾からほのかにのぞいている(女房の)袖口や裳の裾、(女童の)汗衫などの色合いも上品に清楚で、つとめて人目をさけたお忍びの様子がありありとうかがえる車が二つあった。(その車の従者が)
「これは、さらにそんな風に押しのけられるべきお車ではないぞ」
と、強く言い張って、車に手も触れさせない。どちらの側でも、お供の若者たちが(祝い酒に)酔いすぎていて、騒ぎ立てている事には、(誰も)したためる事が出来ない。年嵩の前駆の者たちは、
「そんなことをするな」
など、言ってはいるが、とても、止(と)める事が出来ない。斎宮の御母(六条の)御息所が「(源氏が訪れず)物思いに悩み乱れる(心も憂さの)慰めにも」と、お忍びでお出かけになられていた。(御息所の方は、身分が知られぬよう)わざとさりげないふうを装っていたが、(皆、)自然と分かってしまうのだった。(葵の上の従者は、)
「その程度のに、つべこべ言わせるな。(源氏の)大将殿の御威光を笠に着ているのだろう」
(葵の上の方には、)その御方(源氏)の供の者もまじっていたが、「お気の毒に」と思いながらも、口出しするのも煩わしいので、知らぬ顔を作っている。とうとう、そこに(葵の上方の)車どもが乗り入れてしまったので、(葵の上方の)女房どもの車の後ろの奥に (六条の御息所の車は)押しやられて、物も見えない。(六条の御息所は、)悔しのはもっともだが、こうしたお忍び姿を、自分だと見明かされてしまった事が、何とも恨めしくて仕方がなかった。(現代語訳は、ここまです)

 六条御息所の車は、先に葵祭の見物の為に場所取りをしていましたが、後から来た葵の上の車に場所を取られてしまいます。六条御息所は、悔しがっていますが、葵の上は、どう思ったか書かれていないので私の想像で描きました。葵の上は、恐らく従者が勝手な事をして青ざめていたのではないでしょうか。葵の上は、この後、どうなってしまったのか…、それは、書くのは辞めときましょう。(もちろん、これが直接的な原因とは、考えてはいませんが…。)
 葵祭の説明ですが、行列に参加する全ての人が、葵の葉を身に付けている事から、葵祭と呼ばれています。古代、単に祭りと言えば、この葵祭を指します。この辺の説明は、このブログを読んでいる人には全く必要ないですね。葵祭は、上賀茂神社、下鴨神社の例大祭で、今も続いています。未婚の皇女が賀茂神社に奉仕する斎院の制度は無くなりました。斎院の代わりに、京都にゆかりのある女性が斎王代(さいおうだい)を務めます。ここから、写真を紹介していきます。
IMG_2332.jpg
 この写真は、京都御所で撮ったものです。行列が、京都御所から下鴨神社へ向かう様子です。この男性は、勅使です。在原業平が、伊勢神宮の勅使として同じ格好をしているので、お馴染みだと思います。男性は、基本的に頭に葵の葉を付けています。
IMG_2333.jpg
 牛車です。貴人が乗っています。藤の花で飾られています。私は、初めて牛車を見ましたが、想像以上に大きく、ギイギイ車輪の軋(きし)む音が鳴り響いていて、迫力があり感動しました。
IMG_2350.jpg
 この祭りの中心である斎王代です。手車に乗っています。斎王代以外の女性は、略式の袿を着ていますが、斎王代だけは、十二単を着ています。なかなか、実際に十二単を見る機会は、ほとんどないと思います。私は、実際に見れて、かなり感動しました。IMG_2354.jpg
 斎王代の前後には、多くの女官、女童が付いて従います。女性は、基本的に胸に葵の葉を付けます。
IMG_2369.jpg
 京都御所から下鴨神社社へは、一般道を移動します。沿道では、大勢の観光客が写真を撮っていました。
IMG_2383.jpg
 下鴨神社に着きました。検非違使が警護する中で、神事が行われています。写真の紹介は、ここまでです。私は、上賀茂神社まで行く事が出来ませんでしたが、初めて葵祭を見る事が出来て良かったです。葵祭は京都で今も続く最も古い『祭』なので、私は実際に見る事が出来て凄く感動しました。行って良かったと思います。ここまで読んでくださいまして、ありがとうございました。
スポンサーサイト



明石の上について話します。

明石の上
 今回は、源氏物語の明石の上について話します。よろしくお願いします。明石の上について説明します。明石の上は、前播磨守(さきのはりまのかみ)の明石の入道の一人娘です。光源氏(以下、源氏と表記)は、右大臣の娘、朧月夜と、密かに男女の関係を続けていましたが、ある日、その事が、右大臣と弘徽殿女御、大后に露見してしまいます。源氏は、これを機に、自ら須磨で謹慎する事を決めました。源氏は、須磨から明石に行き、そこで明石の君と出会い、結婚して、明石の君は明石の上になります。明石の上は、娘、明石の姫君を出産します。明石の姫君は、天皇の妻になります。粗筋は、ここまでです。
 ここから、私が、明石の上について思う事を述べていきます。明石の上は、とても大人しくて、控え目でいいと思います。また、明石の上の特長として、達筆である事、琴、琵琶の演奏が非常に上手である事が挙げられます。明石の上は、何でも人並み以上にこなします。それがいいと思います。
 明石の上は、源氏との子、明石の姫君を出産しました。明石の上は、自分の娘である明石の姫君と、ほとんど話もしなかったですし、躾にも参加しなかったし、育児も参加しませんでした。それは、なぜかと言うと、明石の上の娘の明石の姫君を、後の天皇の妻にする為には、明石の上では非常に身分が低いと言う事で、でしたら皇族である紫の上に、明石の姫君を育てさせた方が、姫君の出世の為にはいいと源氏は思って、その事に対して、明石の上は同意をする訳なんですよ。明石の上は、娘の出世の為、さらには源氏の出世の為に、自分と自分の娘である明石の姫君との絆を犠牲にした訳なんですね。私は、それが明石の上の魅力だと思います。
 私は、最初に源氏物語を読んだ時、明石の上は、源氏からも大切にされて、その上、自分の娘が天皇の妻になったので、一点の不満もない非常に幸せな人物であると言う解釈をしていました。だから、私は、明石の上に対して、あまり魅力を感じていませんでした。私は、明石の上が自分の娘との絆を犠牲にして耐え忍んでいる事に全く気付いていませんでした。明石の上は、源氏に対して不満を言う事がないので、私は気付かなかった訳です。私が、その事に気付いたのは、源氏物語の人物の中で明石の上が一番好きだと言う方に、その事を教えてもらったからです。私は、今まで、あまり魅力を感じていなかった明石の上が、途端に魅力的に感じる様になりました。
 貴方は、明石の上について、どの様に思っていますか。良ければ、教えて頂けたら幸いです。ここまで、読んで下さいまして、ありがとうございました。

明石の上、紫の上、女三の宮について話します。

女楽
 今回は、明石の上、紫の上、女三の宮について話します。よろしくお願いします。この絵は、若菜、下の帖、六条院で、女楽をする場面です。左の女性は、明石の上。真ん中の女性は、紫の上。右の女性は、女三の宮です。明石の上は、琵琶を弾いています。紫の上は、和琴(わごん)を弾いています。女三の宮は、琴(きん)を弾いています。三人とも、光源氏(以下、源氏と表記)の妻です。正妻は、女三の宮になります。
 ここから、私が、思う事を述べていきます。私のイメージでは、明石の上は、とても大人しい性格をしていると思います。それでいて、控え目で、私はいいと思います。紫の上は、女性らしくて、とても性格が明るい訳ですね。子供の頃から、源氏の近くにいて、妻になってからも、ずっと源氏の近くにいると言う事で、源氏の寵愛が厚い訳ですね。それが、いいと思います。女三の宮は、この中では一番若いですね。女三の宮は、朱雀院の娘です。女三の宮は、14歳の時に源氏に降嫁、この女楽の時で21歳です。女三の宮は、人見知りをする性格で、あまり自ら心を開いて話す事をしない人物です。女三の宮は、猫を飼っていて、可愛がっています。女三の宮は、あまり人と話したがらない性格をしていて、あまり周りの女房とも話したがりません。ですけれど、猫に対してだけは心を開いて話す様な性格をしているのではないかなと、私は思います。私は、それが女三の宮の魅力だと思います。
 この3人の中で、明石の上が、一番、楽器が上手いと思います。なぜなら、明石の上の父親の明石入道は、琵琶の達人な訳ですね。父親の手ほどきを受けた明石の上は、当然、琵琶の達人です。それが、いいと思います。紫の上も楽器の演奏は、上手いです。なぜなら、紫の上は、源氏の手ほどきを受けているからです。源氏は、絵が特に上手いです。源氏は、天才なので、楽器も上手い訳ですけれど、楽器の達人と言えば、致仕大臣(ちじのおとど、元の頭中将)と明石入道です。ですので、源氏は、楽器の演奏に関しては、致仕大臣と明石入道に劣っていると思います。紫の上は、ある程度、楽器を上手く弾けますが、達人の域では無いと思います。女三の宮は、源氏の正妻になってから6年が経っていました。女三の宮は、今まで源氏から琴(きん)を教わっていましたが、さほど上手には弾けませんでした。源氏は、この女楽の日の為に女三の宮に熱心に琴を教え、女三の宮は、女楽の日に琴を上手に弾く事が出来ました。それが、良かったと思います。
 ここには、描いてないですが、明石の上の娘の明石女御も、筝(そう)で演奏に加わっていいます。また、源氏の息子の夕霧も拍子木で演奏に加わっています。若菜、下の帖の女楽の場面は、源氏物語の中でのクライマックスの一つだと、私は思います。なぜなら、源氏物語の主な登場人物が一同に集まって、これほどの大きな雅楽の演奏をするからです。私は、女楽の場面に、とても魅力を感じています。貴方は、どう思いますか。教えて頂けたら幸いです。ここまで、読んで下さいまして、ありがとうございました。

源氏物語 若紫、小柴垣のもと

小柴垣のもと
 源氏物語の、『若紫』の帖の『小柴垣のもと』について話します。この絵の、左の女の子が若紫、右の女の子が犬君(いぬき)です。若紫は、雀を伏籠の中で飼っていたのですが、犬君が逃がしてしまい、悔しがって泣いている所です。若紫の、初登場の話です。若紫は、可愛くて、いいですね。微笑ましい話でいいと思います。若紫、後の紫の上は、重要キャラクターとして、物語を通じて登場します。私は、この頃が、紫の上(若紫)の一番輝いた時期だったんじゃないかと思います。ここまで、読んで下さいまして、ありがとうございました。以下、源氏物語、若紫の帖、小柴垣のもとの原文を載せます。

 人なくて、つれづれなれば、夕暮のいたう霞みたるに紛れて、かの小柴垣のほどに立ち出でたまふ。人びとは帰したまひて、惟光朝臣と覗きたまへば、ただこの西面にしも、仏据ゑたてまつりて行ふ、尼なりけり。簾すこし上げて、花たてまつるめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて、いとなやましげに読みゐたる尼君、ただ人と見えず。四十余ばかりにて、いと白うあてに、痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなう今めかしきものかなと、あはれに見たまふ。
 清げなる大人二人ばかり、さては童女ぞ出で入り遊ぶ。中に十ばかりやあらむと見えて、白き衣、山吹などの萎えたる着て、走り来たる女子、あまた見えつる子どもに似るべうもあらず、いみじく生ひさき見えて、うつくしげなる容貌なり。髪は扇を広げたるやうにゆらゆらとして、顔はいと赤くすりなして立てり。
 「何ごとぞや。童女と腹立ちたまへるか」
 とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、「子なめり」と見たまふ。
 「雀の子を犬君が逃がしつる。伏籠のうちに籠めたりつるものを」
 とて、いと口惜しと思へり。このゐたる大人、
 「例の、心なしの、かかるわざをして、さいなまるるこそ、いと心づきなけれ。いづ方へかまかりぬる。いとをかしう、やうやうなりつるものを。烏などもこそ見つくれ」
 とて、立ちて行く。髪ゆるるかにいと長く、めやすき人なめり。少納言の乳母とこそ人言ふめるは、この子の後見なるべし。
 尼君、
 「いで、あな幼や。言ふかひなうものしたまふかな。おのが、かく、今日明日におぼゆる命をば、何とも思したらで、雀慕ひたまふほどよ。罪得ることぞと、常に聞こゆるを、心憂く」とて、「こちや」と言へば、ついゐたり。
 つらつきいとらうたげにて、眉のわたりうちけぶり、いはけなくかいやりたる額つき、髪ざし、いみじううつくし。「ねびゆかむさまゆかしき人かな」と、目とまりたまふ。さるは、「限りなう心を尽くしきこゆる人に、いとよう似たてまつれるが、まもらるるなりけり」と、思ふにも涙ぞ落つる。
 尼君、髪をかき撫でつつ、
 「梳ることをうるさがりたまへど、をかしの御髪や。いとはかなうものしたまふこそ、あはれにうしろめたけれ。かばかりになれば、いとかからぬ人もあるものを。故姫君は、十ばかりにて殿に後れたまひしほど、いみじうものは思ひ知りたまへりしぞかし。ただ今、おのれ見捨てたてまつらば、いかで世におはせむとすらむ」
 とて、いみじく泣くを見たまふも、すずろに悲し。幼心地にも、さすがにうちまもりて、伏目になりてうつぶしたるに、こぼれかかりたる髪、つやつやとめでたう見ゆ。
 「生ひ立たむありかも知らぬ若草を
  おくらす露ぞ消えむそらなき」
 またゐたる大人、「げに」と、うち泣きて、
 「初草の生ひ行く末も知らぬまに
  いかでか露の消えむとすらむ」
 と聞こゆるほどに、僧都、あなたより来て、
 「こなたはあらはにやはべらむ。今日しも、端におはしましけるかな。この上の聖の方に、源氏の中将の瘧病まじなひにものしたまひけるを、ただ今なむ、聞きつけはべる。いみじう忍びたまひければ、知りはべらで、ここにはべりながら、御とぶらひにもまでざりける」とのたまへば、
 「あないみじや。いとあやしきさまを、人や見つらむ」とて、簾下ろしつ。
 「この世に、ののしりたまふ光る源氏、かかるついでに見たてまつりたまはむや。世を捨てたる法師の心地にも、いみじう世の憂へ忘れ、齢延ぶる人の御ありさまなり。いで、御消息聞こえむ」
 とて、立つ音すれば、帰りたまひぬ。
 「あはれなる人を見つるかな。かかれば、この好き者どもは、かかる歩きをのみして、よくさるまじき人をも見つくるなりけり。たまさかに立ち出づるだに、かく思ひのほかなることを見るよ」と、をかしう思す。「さても、いとうつくしかりつる児かな。何人ならむ。かの人の御代はりに、明け暮れの慰めにも見ばや」と思ふ心、深うつきぬ。
 

秋好中宮について話します。

秋好中宮
 今回は、源氏物語の姫宮、秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)について話します。よろしくお願いします。秋好中宮とは、どう言う人物なのかを説明します。秋好中宮は、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)と、前春宮(さきのとうぐう)の間に生まれた娘です。春宮は、今で言う皇太子です。春宮は、すでに亡くなっています。ですので、前春宮になります。秋好中宮は、以前、斎宮でした。斎宮は、皇族で未婚の女性がなる伊勢の神に仕えるお役目です。斎宮は、6年間の役目を終えられ、京に戻ります。六条御息所は、自分の命がいつ終わるとも分からない状態になります。六条御息所は、我娘である前斎宮を、源氏に養子として扱って欲しいと頼みます。源氏は、それを承諾します。六条御息所は、7、8日後に亡くなります。前斎宮は、源氏の働きにより、冷泉帝に入内(じゅだい、結婚)して、斎宮女御になります。斎宮女御は、絵を描く事が得意です。冷泉帝は、絵にとても興味があり、斎宮女御をとても気に入ります。
 斎宮女御は、後に秋好中宮と呼ばれる様になります。そのエピソードについて話します。そのエピソードは、薄雲の帖にあります。この絵の、奥の女性が斎宮女御、手前の男性が源氏です。六条御息所は、娘の事を源氏に頼むと言った訳ですが、「ましてや、ご寵愛の人のようになるにつけても、つまらない嫉妬心が起こり、他の女の人からも憎まれたりなさいましょう。嫌な気のまわしようですが、けっして、そのような色めいたことはお考えくださいますな。」(澪標の帖)と言った訳ですよ。ですけれど、源氏は、その事は言う事を聞かなかった訳ですね。源氏は、斎宮女御に対して、「このように帰って来て、朝廷のご後見致します喜びなどは、それほど心に深く思いませんが、このような好色めいた心は、鎮めがたくばかりおりますが、並々ならぬ我慢を重ねたご後見とは、ご存知でいらっしゃいましょうか。せめて同情するとだけでもおっしゃっていただけなければ、どんなにか張り合いのないことでしょう。」と言って自分の恋心を仄(ほの)めかし、男女の仲として付き合おうとします。当然、斎宮女御は、入内して、天皇の妻なので、そう言う事は出来ない訳ですよ。だから、斎宮女御は、源氏の事を浅ましく思い、この様に明らさまに嫌な顔をしている訳です。斎宮女御は、源氏の男女の仲として付き合おうとする事に対して、基本的に無視をする訳ですね。源氏は、このままでは斎宮女御が何も言わないからと言う事で、「狭い邸の中だけでも、その季節の情趣が分かる程度に、春の花の木を一面に植え、秋の草をも移植して、つまらない野辺の虫たちを棲ませて、皆様にも御覧に入れようと存じておりますが、どちらをお好きでしょうか。」と言って話題を変えます。斎宮女御は、「まして、どうして優劣を弁(わきま)えることができましょうか。おっしゃるとおり、どちらも素晴らしいですが、いつとても恋しくないことはない中で、不思議にと聞いた秋の夕べが、はかなく(母が)お亡くなりになった露の縁につけて、自然と好ましく存じられます。」と答えます。この事から、斎宮女御は、後に秋好中宮と呼ばれる様になります。源氏物語の中には、数多くの女性が登場しますが、源氏に対して、全く好意を持たない女性は、敵役の大后、弘徽殿女御を除けば、秋好中宮と、夕顔付きの女房、右近の君の二人だけです。源氏を憎んでいる理由は、二人とも同じで、秋好中宮にとって母親、右近の君とって主(あるじ)の夕顔が亡くなった原因は、源氏にあると考えていたからです。源氏物語の中で、源氏は、基本的に女性であれば皆、源氏の事を好きになると言う、そう言う性質を持っていますが、秋好中宮には通用しない訳ですね。そこに、魅力を感じます。源氏の、春と秋、どっちが好きですかと言う問いに対して、秋が好きだと答えた事から、この女性は、秋好中宮と呼ばれます。秋が好きな理由は、母が亡くなったのが秋だから。四季の中で、どれが一番好きですかと言う問いに対して、それに対して答える事は、よくある、たわいのない話なんですが、源氏物語にも似た話はある訳ですね。そこが、魅力的だと思います。貴方は、秋好中宮に対してどう思いますか。教えて頂けたら幸いです。
 ここからは、たわいのない話をします。折角、秋好中宮の話をしているので、この話をさせて下さい。私は、四季の中で、どれが一番好きかと言うと、冬が一番好きです。理由は、気温が低くて、私にとって、過ごし易いからです。今は、羽が入ったダウンジャケットがあるので、それを着ていれば寒くない訳ですね。昔は、ダウンジャケットが無かったので、冬はあまり好きではなかったのですが。冬ならば、どこにでも旅行に行ける気がします。また、冬は、空気が澄んでいて、空が高いのが良いと思います。貴方は、四季の中で、どれが一番好きですか。よければ、理由も教えて頂けたら幸いです。ここまで、読んで下さいまして、ありがとうございました。
出典 渋谷栄一 源氏物語

テーマ : 恋愛小説 - ジャンル : 小説・文学